第3章 手を置くこと フランシス著
いやしの務めをしている人なら誰でも、自分の好きな病人のいやし方、というのがあります。
わたしの好きな方法は、マルコ16:17、18の、イエス様の言葉に要約されています。
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。 すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、 ・・・・ 病人に手を置けば 病人はいやされます。」
一番簡単な病人のいやし方は 手を置くことだと思います。
イエス様が次のように言っていないことに注目してください。 「信じる人々には、病人に手を置いて、三十分祈り、感情を高ぶらせて、床を転げ、蹴ったり叫んだりわめいたりして、そこらじゅう震えまわって、その後、病人はいやされるでしょう。」と。 いいえ、主は単純に、 「信じる人々は、病人に手を置けば 病人はいやされます。」と言われたのです。
聖書には、どんな疑いも残していないのにお気づきでしょう。 そこには、あなたがたのうちの数人とか、信じる人の中の少しの人とかとは 書いていません。 それはただ単純に、すべての信じる人々は、病人の上に手を置き、病人はいやされる、と言っています。
信者には 病人をいやす資格があるのです。 では、信者とは何ですか。 信者とは、イエス様が神の子であり、私たちの贖い主(あがないぬし)であることを信じている人々です。 そればかりではなく、信者は、悪霊を追い出し、御霊の言葉で話すことができる と信じています。 病人に手を置き、彼らをいやすことができる、とも信じているのです。
もし、全て 聖書の通りになってほしいと望むなら、全て を信じなければいけません! みことばを語るときに しるしや不思議や奇跡が起こることを望むなら、いやしを信じなければいけません。 あなたが、いやしは今日の為にあるのだということを信じていなければ、あなたが手を置いても病人は治らないでしょう。 また、あなたが 主イエスキリストご自身によって 悪霊を追い出すことを任命されていると信じない限り、追い出すことはできません!
チャールズと私の 最も大きな働きは、たぶん いやしでしょう。 その理由は、私たちが一歩踏み出して、神様が私たちに命じられたことをするとき、恐れたことがないからです。 私たちはときどき いろいろなことを試してみました。 聖書にはいろいろな いやし方が記録されていますが、神様がすばらしい働きをさせてくださる新しい方法が他にもあるからです。
あなたは、「でもそれは、聖書には書かれていないではありませんか。」と、言うかもしれません。 ヨハネは言いました。
「イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もし それらをいちいち書き記すなら、世界も、書かれた書物(巻き物)を入れることはできない、と私は思う。」
(ヨハネ21:25)
私たちは、聖書の原則から離れてはいませんが、聖書に特別に記されていない、いろいろな種類の奇跡があることを理解しなければいけません。これらの奇跡は聖書的なのです。 なぜなら、これは マルコ11:23や 16:18などの聖句の権威のもとに 行なわれているからです。
第1に、イエス様が地上での公生涯の記されたいやしの方法は、人々に触れること、すなわち、「手を置くこと」でした。 これは 今日も 使われています!
私が憶えている中で、一番ユニークないやしは、私がある集会の会衆の中の通路を歩いていたときに起こりました。 神様が手を伸ばして、ある婦人の頭の上を触るようにと、私に迫られました。 この女性は舌の癌があったのです。 私がちょっと触っただけで、神様の力が解き放たれ、彼女の癌は完全にいやされ、舌も全部きれいになりました。
霊に満たされた信者が、誰かの上に手を置くとき、神様の力が出て行って その人の中に入ります。 もしあなたが 御霊に満たされているなら、イエス・キリストを墓からよみがえらせたのと同じ 復活の力が あなたの中にあるのです。 それは聖霊の力です。 この力はあなたの中に いつも宿っているのです! あなたは 何も感情を高ぶらせたりする必要はありません。 私があの通路を歩いていたとき、喜び以外に何の感情もありませんでした。 しかし、内に宿っている神様の力は働きました。 それはあなたが感じようと、感じまいと、いつも働くことができるのです!
またある時、通路を歩いていて、糖尿病の男の人にさわりました。 彼は瞬間的にいやされました。 この二つのいやしは、何年も経ってから聞かされたので、このほかにも
同じ方法でいやしを経験した人が何人いるかは分かりません。 どちらの場合も、激しい祈りや
感情の高まりはありませんでした。 ただ触れただけなのです!
触れることは、私たちの生活においていろんな役割を果たします。 みなさんは チャールズと私が立っているとき、二人が腕を伸ばして、お互いの手に触れあっていることをよく見かけると思います。 本当にすばらしい集会の最中に、私が手を伸ばして彼の手にさわるとき、または、彼が私の手に触れる時、それは、「愛しているよ。」と言っているのです。 あなたがまだ小さかった時、転んですねをすりむいて、泣きわめきながらお母さんの所へ走っていったことはありませんか。 彼女は、たぶんあなたを抱きしめただけでしょうか。 それでも、その触れ合いは、あなたにとって何か特別なことだったでしょう。 あなたがたが救われていなかったとしても、触れ合うことは、人間の愛に大きな役割を果たします。
病院で、手術の後、誰かがあなたの手を軽くたたいてくれたことはありませんか。
それは、「あなたなんか嫌いだ。」と言っているのではなく、「すべてうまくいきますよ。」と言っているのです。
もしあなたが、愛する人を失ったことがあるなら、その時、人々は何も言えなくても、あなたの肩を軽くたたいただけで
あなたは大きな励ましを受けたでしょう。 何も言わなくても、その触れ合いは、「あなたの気持ちは分かります。お察し申しますよ。」と言っているのです。
私たちは、いやしの働きの中で、私たちの手がどれほど大切であるかを知らなければいけません。
私たちは、触れることの重要さを知っていなければいけません!
統計によると、最小限度の取り扱いしか受けていない子は、いらいらして怒りっぽく、いつも抱かれてかわいがられている子と比べて、病気がちだそうです。
一緒に遊んでもらったり、抱いてもらったりしている子供たちは、愛情が深い傾向があります。
時々、「いやすことは神様のみ旨ではない。」と言う人がいます。 こんなことを言う人は、聖書を知らない人であることを覚えておかなければいけません。
そういう人にあげるのに良い聖句は、使徒の働き10:38 の ペテロのことばです。
「それは、ナザレのイエスのことです。 神はこの方に聖霊と力を注がれました。
このイエスは、神が共におられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」
すべての神様の子が いやされるのは、神のみ旨です。 神様はイエス様に油を注がれました。
その目的は何だったでしょう。 神様がイエス様に油を注がれたのは、イエス様に、神様が望まれることをする力を与えるためでした。
神様が油を注がれたとき、神様は聖霊と力とによって イエス様に承認の判を押されたのです。
そしてイエス様は、「巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」 使徒の働き10:38は、イエス様が巡り歩いて、「悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」と言っています。
病気は 悪魔から来ています。 神様は、病を取り去って、奇跡を成すことができます。
神様の命令に従う者に 病を送るのは、神様ではありません。(申命記28章)
人々が、「神様は、私に教訓を教えるために この病を送ってくださいました。 神様は私に何かを教えてくださるのです。」と言うのを聞いたことがあります。 神様が子供たちに 病気のようなひどいものを与えられるでしょうか? 私たちが地上で子供たちを愛する以上に、神様は私たちを愛しておられることを 考えてみてください。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか、自分の胎の子をあわれまないだろうか。
たとい、女たちが忘れても、このわたしは あなたを忘れない。」 (イザヤ49:15)
私は、すべての病は 悪魔から来ると信じています。 しかし、神様はそれを取り去って、あなたの人生の中で 最も偉大は奇跡にすることができるのです。
私の場合がそうでした。 私は 1964年に交通事故に遭いました。 ある若い男性が私の車の後ろにぶつかってきて、その衝撃で 私の左目は失明してしまいました。 それは、ひどい惨事で終わったかもしれませんが、反対に、神様は それを私の人生の中のすばらしい出来事にしてくださいました。 私はこの結果、イエス様を見つけたのです! 神様は、悪魔のしたことを 変えてくださいました。 49年間も イエス様から逃げ続けた後、私は とうとう 主を受け入れたのです! 神様がこの事故を起こしたのではありません。
神様が、私を失明させたのではありません。 このことと神様とは何の関係もありません。
しかし神様は、この状態を奇跡に変えてくださったのです! もう一つのすばらしい聖句は、Tヨハネ3:8です。
「 ・・・・ 神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。」
イエス様は問題を起こすために遣わされたのではありません。 主が遣わされたのは、悪魔の働きを打ちこわすためなのです。 ルカ4:18で、イエス様はこう述べています。
「わたしの上に 主の御霊がおられる。 主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油注がれたのだから。
主はわたしを遣わされた。 捕らわれ人には放免を、盲人には目の開かれることを告げるために、しいたげられている人々を自由にし、
・・・・ 」
イエス様と同じように、私たちも福音を宣べ伝えるよう、油注ぎを受けています。 どこにいても、いやしの働きをしていようと、他の働きをしていようと、私たちはいつも、福音を宣べ伝えるように油注がれているのです。
この油注ぎは、いつまでも続くのです。 「主よ、また油を注いでください。」と言う必要はありません。
あなたは 油注がれ、任命されているのですから、いつでも神様の油注ぎがあなたの上にあることを
信じて、出て行くことができます。 私たちは、イエス・キリストがこの地上におられたときに
成されたことと同じことをするために、遣わされていることを 知っています。
マルコの福音書に、イエス様がどのように人々をいやされたか、いろいろな例が載っています。 イエス様がどのように病人をいやされたか を探しながらマルコを読み、それから福音書全部を読んでください。 マルコ1:40−42
には イエス様がらい病人に ただ「触った」ことが書かれています。 主が彼の上に手を置かれただけで、彼はいやされました。
マルコ5:35−40 はこう言っています。
「イエスが、まだ話しておられる時、会堂管理人の家から人々が来て、言った。『あなたの娘は亡くなりました。もはや先生を煩わすことはないでしょう。』 イエスはその話しを聞くとすぐに、会堂管理人に言われた。『恐れないで、ただ信じていなさい。』 (信じることは、非常に大切です) そしてペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネの他は、一緒について来ることを、お許しにならなかった。 彼らが会堂管理人の家に着くと、イエスは人々が大声で泣いたり、叫んだりして、騒いでいる(当時の葬式の慣習)のをご覧になり、 中に入って、彼らに言われた。『なぜ泣き騒いでいるのですか。子供は死んだのではない。眠っているだけです。』 人々はイエスをあざ笑った。」
主が 未信者たちを部屋から出されたことに気がついたでしょう。 (不信仰はいやしを止めます!) マルコは言っています。
「しかし、イエスは皆の者を外に出し、子供の父母と供の者たちだけを連れて、子供が横たわっている所へ入って行かれた。 そして子供の片手を取って、『タリタ、クミ。』と言われた。それは、『少女よ。目を覚ましなさい。』という意味である。 すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した。十二歳(女子のユダヤの成人、男子は13歳)にもなっていたからである。彼らはひどく呆然となって驚いた。 イエスは、だれにもこの事を知せないように、厳しく彼らに命じられ、また、少女に食物を与えるようにと言われた。」
イエス様は娘の手に触れられたのです。 イエス様が彼女の手に触れたその瞬間、いのちが彼女の中に戻ったのです。
このエピソードの中で、イエス様は2つの信仰の原則を用いられました。 主は 彼女に触れて、そして 語りかけられました。 主は 起きるように命じられました。 私にも あなたにも わからないことですが、もし主が何も言わなかったなら、彼女はベッドから起き上がらなかったかもしれません。
もし主が彼女に触れただけで一言も言わなかったら、何も起こらなかったかもしれません。
しかしイエス様は 命じられました。 主が 「起きなさい」と言われると、彼女は死んでいたにもかかわらず、起き上がったのです。
彼女は寝たまま、「私は死んでいるのです。そんなことはできません。」とは言いませんでした。
彼女は起き上がったのです。
マルコ7:32−35 には、イエス様がある聾唖(ろうあ)者をいやしたことが書いてあります。
「すると人々は、耳が聞えず、口のきけない人を、みもとに連れてきて、彼に手を置いてくださるようお願いした。 そこで、イエスは彼一人を群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それから、つばきを付けた指をその舌に触れ、 天を仰いで深くため息をつき、彼に、『エパタ。』と言われた。これは、『開け。』という意味である。 すると、ただちに彼の耳が開かれ、その舌の縛りが解けて、正しく話し始めた。」
あなたにはイエス様のされたことがわかりますか。 主は彼を群衆から連れ出しました。 主は彼の両耳に指を入れました。 主は彼に触れられたのです! 主は耳が開かれるように、命じられました。 主は触れることによって、聖霊の力で耳をいやされました。 耳をいやす方法はいくらでもあるでしょうが、私の知っている最も良い方法は、あなたの指を誰かの耳に差し込んで、神様の力が
指の中から出て行くことを 信じることです。
ある晩、コロラドの集会で、耳のいやしに関する知識の言葉が与えられ、39人のうち38人が耳を触っただけで 瞬間的にいやされました。 触れることには力があるのです!
アイオワ州エイムスのある集会で、足が内側に曲がってひどいことになった小さな赤ん坊が 前に連れて来られました。 私は 両手に片足ずつ持っていると、完全にまっすぐにされました! 私は奇跡が起こるのを見、感じるスリルを味わいました。 私は何も言った覚えはありません。 ただ赤ちゃんに触れただけで、私の手の中で骨の構造が変えられていくのを感じ始めたのです。 それは祈りではありませんでした。 命令でもありませんでした。 それは手を置くことによるいやしでした! 私がこんな個人的な例をあげているのは、あなたの信仰を高めて、「わー、私にもできるんだ!」と思っていただくためです。
神様はしばしば、同じ集会中に、同じ病気の人々を 違った方法でいやされることがあります。 ある晩、斜視のことについて知識の言葉が与えられ、三人の子供たちが前に出てきました。
一人は前に出てきたときに いやされました。 もう一人は 彼女の目に手を置いたときにいやされました。
私たちが手をのけると、片方の目が弧を描いて動き、正しい位置に止まりました。
三人目の子には、「目よ、イエスの名によって いやされなさい。」と言いました。
彼女は命令によっていやされました。 三つの同じ病気のいやしが、三つの違った方法で行なわれたのです!
私たちの集会に来た人々が 時々、「チャールズとフランシスは 本当に病人をいやすことができます。 手を置いただけで事が起こるのです。」と言うことがあります。 チャールズ・ハンターとフランシス・ハンターは、あなた以上の力は持っていません! しかし、私たちには、何か少し違ったものが 確かにあります。 私たちは普通の人よりも、もっとその力を使うのです。 私たちはほかの人々のように がっかりしたりしないで、うまずたゆまず 使い続けています。 私たちは聖霊のバプテスマを受ける前に、一万人くらいの人々に手を置きましたが、その中でいやされたのは10人くらいでしょう。 私たちは 聖霊のバプテスマを受けることの必要性を知りませんでしたが、それでもあきらめませんでした。
あなたも へこたれてはなりません! もしあなたが、誰かの上に手を置いて 何も起こらなければ、別の人に手を置いてください。 男の人にも女の人にも手を置きなさい。 何も起こらなくても、あきらめてはいけません。
チャールズと私は、同じ人に5回も違った方法を試したことがあります。 命じたり、手を置いたり、悪魔を追い出したりしましたが、最後には、がんばりが報われて
人々がいやされるのを見ることができるのです!
もし人がいやされないとき、すぐに「今晩は あなたがいやされる晩ではないようですね。」などと言ってしまったらどうでしょう。 彼らは もうずっといやされないかもしれないのです。 しかし私たちは うまずたゆまず やり通して、神様のことばに十分説明されていないことも、模索し続けました。
神様はすべての信者に こうすることを望んでおられます。 すなわち 信仰の一歩を踏み出して、病人の上に手を置き、いやされることを信じるのです。 私が病人に手を置くとき、なぜ治ることを期待するかわかりますか。 それは、私が何の疑いもなく、イエス・キリストが私の中に、私を通して 生きておられることを信じているからです。 もし私が それを信じていないならば、手を置いても人々がいやされるわけがありません。
パウロは、その書簡を通して、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」について説きました。
パウロの描写したイエス様は、信者の外にいて、信者を引きずりながら「来なさい。わたしはあなたを病人の上に手を置かせよう、彼らをいやさせよう。」と言っているような方ではありません。
私たちは、イエス・キリストが 私たちの中に、私たちを通して 生きておられる、ということを信じなくてはいけません。 神様のみことばがそう言っているのですから。 世界中で私を一番驚かせることは、あなたが私を見る時に見える この肉体の体は、フランシス・ハンターに与えられたものであっても、その中に住んでおられる方は イエス・キリストだということです! あなたが あなたの内に住んでいるのがイエス様であることを十分理解したとき、それはあなたを完全に変えるでしょう。 そして あなたが手を伸ばす時、それはイエス・キリストの手であることに気がつく日が来るでしょう。 イエス様は言われました。
「わたしを信じる者は わたしの行なうわざを行ない、またそれよりも さらに大きなわざを行ないます。
わたしが父のみもとに行くからです。」 (ヨハネ14:12)
イエス様は、その仕事を完成するために、誰をこの地上に残されたのですか? 主は、わたしたちを 残されたのです! 主は、主の権威を用いて、病人に手を置くように、私たちを任命されたのです。 イエス様の名によって、すべてがすでに成されていることを 忘れてはいけません。 イエス様の名によって、すべての奇跡は成されるのです。 それはイエス様が 私たちの中に、私たちを通して 生きておられるからです。
この事実によって 私たちが聖くなるわけではありませんが、私たちは 私たちがキリストにあって誰であるかを知る必要があります。 悪魔が 「自分を何者だと思っているのか」と問うときには、次のように答えられなければなりません。
「私は神の子である。 私は神の義を持っている。 私の心には イエス様が生きておられる。 私は自分が誰なのか知っている。 私は いてもいなくても良いような者ではない。 私の中には、イエス様が生きておられる。」 すべての生まれ変わった 霊に満たされた信者は、非常に大切な存在です。 それは私たち一人一人の中に イエス様が生きておられるからなのです!
ちょっと私の言うとおりにしてみてください。 手を自分の前に差し出して、「これはイエス様の手であるから、私の手にはいやしの力があります。」と言ってみてください。
足を床から上げて(立ったままではできませんが、)こう言ってください。 「これはイエス様の足です。
神様の力は 私の体全体に行き渡っています。 それは手だけに限られていません。
私の足にもあります。 すねにもあります。 頭にもあります。 私の体中にあるのです!」
聴衆が多すぎて 私とチャールズだけでは 一人一人のために祈ることができないことがよくありますが、そういう時には、「みんな自分自身の上に手を置いてください。」と言います。
あなた自身をいやす力が、あなたの手の中にあるのです! たとえば、4年前 オーストラリアノメルボルンにいたときもそうで、私たちは「病気で侵されている体の部分に手を置いてください。 神様は皆さんをすべていやされます。」と言いました。 その夜、神様は私たちに 信仰の賜物を与えてくださいました。 そして4年後にメルボルンへ帰った時、その集会のスポンサーが、自分の上に手を置いた人々がすべていやされたことを教えてくれました。
自分自身の手の中に流れている聖霊の力を、決して過小評価してはいけません。
最近の集会で、私は 頭痛や片頭痛のある人たちのために手を置いたのですが、ある女性に「自分の上に手を置いて、『イエスの御名によって、痛みよ出て行け!』と言ってみてください。」と言いました。 「イエスの御名によって出て行け。」と言う時には、権威をもって言ってください。
ささやいてはいけません。 悪魔に、あなたが信仰を持っていることを知らせてやりなさい。
この女性は、ものすごい権威をもって 「イエス様の御名によって出て行け」と命じて、自分の頭にさわると、神様の力によって
後ろにひっくり返ってしまいました。 彼女は、自分で自分を気絶させるほどの権威と信仰をもって語ったのです。
会衆があんなに笑ったことはありませんでした。 起き上がった時、彼女は「床に倒れる前に
私の頭痛は消えていました。」と言っていました。
これが本当の力です。 これが あなたの手にある力を信じる ということなのです。
今、あなたも行って 同じようにしなさい!
チャールズ著
あなたは明かりのスイッチをつけたり消したりしたことはありませんか?
もしあるなら、あなたは病人をいやすだけの知識がおありです。 あなたが住んでいる所からそう遠くないところに発電所があり、発電機が電気を作り出しています。
この電気、このエネルギーは、電線を通って電源からあなたの家の電灯まで来ます。
発電所から電球まで流れてくるエネルギーが 電球のフィラメントを輝かせ、私たちはこれを
電気がついている と言うのです。 発電所と電球の間には、スイッチ あるいは
遮断機があります。 このスイッチは、電源から電球までのエネルギーの流れを
切ることができるように作られています。 あなたがスイッチを付けると、電線がつながってエネルギーが流れます。
もしそれを切ると電線が離れ、電源と電流の間に隔たりが生じ、エネルギーは通りません。
同じように、あなたの中にある聖霊は発電機、つまり電源です。 これが力の根源です。 あなたの手は、つけたり切ったりするスイッチで、いやしを必要としている人は 電球です。
さて、スイッチをつけるか切るかは あなたしだいです。 「手を置いて」いやすかどうかは、すべてあなたの選択にかかっています。 電流が電球を灯すように、神様の力がいやします。 もし暗い部屋に明かりを灯したければ、明かりのスイッチをつければよいのです。
そうしなければ部屋は暗いままです。 もしあなたに誰かをいやすような機会があるとするなら、そこにも同じような選択があります。
彼らに手を置いていやすか、病気のままで放っておくか、どちらかです。
もしあなたが発電機を受けていないなら、今すぐ受けてください。 イエス様に聖霊のバプテスマをくださるよう求め、神様に手を上げ、主を愛し ほめたたえなさい。 でも自分の母国語でしてはいけません。 愛のうちに、声を出し始めなさい。 そうすれば 聖霊は その声を変えて 言葉とし、それはどんな人をも 驚くべき人間に作り変えてくれるでしょう。 あなたの霊が 初めて神様と語れるように、あなたの霊を はばたかせてください!
「異言を語る人は、人々に対して語るのではなく、神に対して語っているのです。それは、誰が聞いても理解できず、彼は御霊によって奥義を語っているからです。」(Tコリント14:2)
イエス様のスイッチとなりなさい。 ただし、イエス様のために 「スイッチがオン」になっていることを忘れないように。 そしてこのことによって、あなたが世の光となってください。 イエス様は言われました。 「あなたがたは、世の光です。」(マタイ5:14)
病人に手を置き彼らをいやすというのは、イエス様が世の光となるために用いられた
手段の一つです。 それは、失われた人が 主を見出すことができるように 照らす手段です。
主はこの地上での仕事を私たちに引き継がせ、いやしの力を下さいました。 そしてこの内なるダイナミックな力によって、私たちは
地上にいる間、主の働きをすべて力強く続けていくことができるのです。 私たちの手のうちには何の力もありません。
しかし、私たちの手には 神様の聖霊が流れる時、そこには力があります。
私たちの肉体は、ちりや 土からできています。 土をもう一つの土の上に置いても
いやしの力は出ません。 私たちは手を使うことによって 愛や思いやりを表現することはできるかもしれません。
しかし、神様の力だけが、病人をいやすことができるのです。 人間である私たちは、自分たち自身の力によって
病人をいやすことはできないのです。
すかし、私たちの体には、自然に自分自身をいやす力が備わっています。
神様は 私たちを 健康体として創造されました。 主は、私たちが 肉体を神様の法からはみださないさえすれば、健康を保てるように造られたのです。
テキサス西部で奉仕していたとき、13歳の女の子がいやしのために私のところに来ました。 彼女は一年前に学校で転んでから、大きなたんこぶができたままになっていました。 それはまだ痛くて、母親は非常に心配していました。 私はわくわくするような奇跡を見逃したくはないので、目をあけて祈ります。 イエス様は、四千人の人たちのために パンと魚を増やす奇跡を行ったとき、上を見上げられました。 私は そのたんこぶに目をすえて、人差し指で軽く触れて言いました。 「イエス様の御名によって。」
たんこぶは一瞬のうちに消え去りました。 それは、確かにあったのですが、影も形も無くなりました。
もしあなたが、本当に罪の赦しを願うなら、イエス様が一瞬のうちに あなたを赦されます。 たんこぶのように、赦しを願う前には罪があるのですが、その後はもう無いのです。
「イエスは、この書に書かれていないしるしを、他にも多く、弟子たちの前で行われた。 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるようになるためであり、また、あなたがたが信じ続けて、イエスの名によって永遠のいのちを持ち続けているためである。」
(ヨハネ20:30、31)
ある晩、50歳くらいの女性が鼻のいやしのために来ました。 彼女は 4−5歳の時、鼻の骨を折って、斜めに曲がったままになっていました。
私は軽く指で彼女の鼻をなでおろすと、私の目の前で 鼻は一瞬にして まっすぐになりました。
数か月後、私はあるグループの人たちとメキシコ料理を食べながら この話をしていました。
私がしたことを見せるために、隣に座っていた女性の鼻を指でなでおろしました。
彼女の向かい側に座っていた 牧師夫人のお母さんが言いました。「鼻を見てごらん。もう曲がっていませんよ。」 奇跡を語ることによって、彼女に信仰がもたらされ、指を置いたことによって
力が彼女の鼻に入りました。 神様が20世紀の奇跡を成されたのです。 主の力ある御名に
栄光がありますように!
聖書は「病人の頭に手を置いていやしなさい。」とは言っていないことに気がついていましたか?
私たちのいやしを見れば、私たちの手が、鼻や、耳や、頭や、手や、足や、目に
置かれていることがわかるでしょう。 神様の力の流れが病人をいやすのですから、私たちはいやしを必要としている肉体の部分に
できるだけ近い所に 手を置きます。 これによって力は病の部分に直接達することができます。
入っていく力が非常に強いので、私たちが足に触ると、人々は神様の力によって倒れることがあります。
もう一つお勧めしたいことは、いやされようとしている人に できるだけ近くに立つことです。 というのは、力は実際に、あなたの霊のすべての部分から、あなたの体のすべての部分を通して、あなたのそばにいる人の中に流れていくからです。 たくさんの聴衆がいやされるのは、信者たちの信仰によって 彼らの中にある聖霊の力が集まり、彼らの周りにいる人々の中に入っていくからだ、と私たちは信じています。
私は神様の命令と同じように、イエス様の願いを大切だと考えています。 ですから十戒の一つを守るのと同じように、病人に手を置いて 信者をいやすべきだと、強く感じています。 イエス様は、地上にいる間 この方法を用いて、人類が彼を、救い主なるメシヤとして信じることができるようにされたのです。 弟子たちもこれと同じ法則を用い、イエス様と同じ力を使いました。 私たちも 弟子たちと変わりません。 それどころか、私たちは 地上で短い間 人となられた イエス様と変わらないのです! 何というすばらしい特権でしょう! 何という恐れ多い責任でしょう! 主イエス様は、何という信頼を私たちの手に置かれたのでしょう。 何という大きな任務を与えられたのでしょう。
実際に主の体となってこの地上で働き、主のすばらしいみ旨を行なうとは。
イエス様が死なれたのは失われたものを救うためだけではなく、病人をいやし、サタンの悪に捕らえられた者を解放するためなのです。
主のみ旨を行なうことは簡単です。 ただ単純に病人にあなたの手を置いて、あなたの内なる聖霊からダイナミックな力が出て行って、あなたを通して、それを必要としている人の中に入っていくことを信じればよいだけです。
もし私たちがイエス様が地上に生きておられた時代に戻り、主と共にいる特権が与えられたとして、主に、「魚を釣って、その口からお金を取って税金を払いなさい。」と言われたら、どうするでしょうか。
私だったら、主に従って ペテロよりも先にお金を取りに行くと思います。
イエス様ご自身このダイナミックな病人のいやしを始められたのですし、主は、私たちがこれを実行して、傷ついている人類を解き放ち、彼らがイエス様を信じるようにさせることを
望んでおられるのです。 イエス様は言われました。
「信じる人々には(つまり、あなたや私です) ・・・ 病人に手を置けば
病人はいやされます。」 (マルコ16:18)
これはイエス様によって直接語られました。 これは主の偉大な命令の中の一部です。
これはイエス様が 地上で最後に語られたことばです。
今と昔と 従順に違いがありますか? イエス様は単純にこう言われました。 「チャールズ。行って、病人に手を置きなさい。 私がしたときと同じように、彼らは治るでしょう。 フランシス。あなたも行って病人に手を置きなさい。 私は あなたを通しても 病人を治します。」 主はあなたにも同じことを言われました。 私たちは誰でも 主に従うだけの信仰はあるはずです。
みことばは、私たちクリスチャンは イエス様の体であると言っています。
そして、もし二千年前に主が体を通して働かれたのなら、なぜ私たちはそれを
今日変えようとするのでしょうか。 イエス様が私たちの中に、また、私たちを通して
生きておられるということを知るのは、すばらしいことです。 同じ聖霊の奇跡を行なう力がいつも私たちの中にある
ということを知ると、私たちは圧倒させられます。
もしあなたが、神様があなたの手を通していやすのを 自分の目で見る、というスリルある経験をしたことがないなら、試してみませんか? 今すぐ始めてください!
第4章 手を置くことプラス・アルファ フランシス著
私たちは複数の方法を使って 病人をいやすこともあります。 時には マルコ16:18にしたがって 人に手を置き、その上に マルコ11:23、24を足して、何かがなされるように「言ったり」「命令したり」します。 その後 「信仰による行動」や「信仰の賜物」や 聖霊に打たれたりすることが続くこともあります。 一つのいやしのために たくさんの違った方法がとられることに しばしば気づかれるでしょう! ですから 一つの方法でいやされなくても、それで止めてしまってはいけません。
マルコの福音書で、イエス様はこう言っています。
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。 ・・・・ また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
(マルコの福音書16:17、18)
イエス様のこの約束に変える余地はありません。 主は、いやしが 多分起こるとか、可能性があるとか言われたのではありません。 主は 「いやされます。」 と言われたのですから、みなさんの上の手を置くとき、私たちは みなさんが いやされることを期待するのです。 イエス様が言われた条件は、ただ 「信じる人々」であることと信じています。
もしあなたが「病気」なら、自分自身の上に手を置くことさえできます。
私はそうしています。 悪魔が私に頭痛を与え、周りに祈ってくれる人が誰もいないようなとき、私がどうするか分かりますか?
私は自分自身の上に手を置くのです。
聖書は、信じる人々は「自分以外の病人に」手を置けば、とは言っていません。
それはただ、「信じる人々は、」病人に手を置けばいやされる、と言っているのです。
ですから 私は自分自身の上に手を置いて、「頭痛よ、イエス様の御名によって
出て行け。」と言うのです。
たくさんのクリスチャンは、疑いや 不信仰で 悪魔にいやしを取られてしまうのです。 ですから疑いを締め出してください。 悪魔は あなたが病気に出て行くのを命じるのを聞くのと同時に働き始めます。 彼もあなたと同じように マルコ11:23をよく知っているのです。 もしあなたが疑うことをさえしなければ、あなたには何でも与えられることを彼は知っているのです。
あなたは 悪魔がどんな性質を持っているか 知っていますか? イエス様は言われました。
「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。
悪魔は初めからの人殺しであり、真理に立っていません。 彼のうちには真理が無いからです。
彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。 なぜなら彼は偽り者であり、また
偽りの父であるからです。」 (ヨハネ8:44)
うそをつくのは悪魔の性質です。 あなたを殺そうとするのも彼の性質です。
特に、もしあなたが 「致命的な」病を持っている場合、悪魔はあなたが祈ってもらったすぐ後に、疑いと不信仰を持ってきます。
彼は最初から殺人者なのです。 彼はどのようにして、これを達成するのでしょうか。
彼はあなたに言います。 「うまくいきませんでした。 あなたはまだ病気です。
あなたはいやされているようには全く見えません。」
信仰がどのようにして働くか、というすばらしい例を挙げてみましょう。 私は、もし私たちが 神様のことばが 本当に真実であることを理解し、神様のことば(すなわち 答え)の上に立ち、周りの状況(問題)を見ないなら、私たちは正しい方向に向かっている ということを信じているからです。
数年前、ジーン・リリーという男の人が 恵みに満ちた死に方についての本を書いていました。
ジーンは自分が死ぬことを知っていました。 彼は17年間身体が麻痺したままで、医者に死を宣告されたのです。
彼は 多発性硬化症でした。 糖尿病でした。 コレステロールとトリグリセライドが高く、脳膜に傷もありました。
その上 身体はめちゃくちゃでした。 彼はある日テレビである牧師の話を聞いていると、その牧師は彼を指さしてこう言いました。 「あなたは偽善者が嫌いで教会に行かないのでしょう。」
ジーン・リリーはつぶやきました。 「全くその通りだ。 私は偽善者には我慢ができない。」
ジーンによるとその牧師は指が曲がっていたのですが、彼はそれをテレビカメラに向けてこう言ったのです。
「偽善者に関してあなたがたに言うことがあります。 少なくとも彼らは何かをしている。
でも、あなたは何もしていません。」
この番組を見て、ジーン・リリーは救われました。 そして彼は思いました。 「神様に栄光があるように。 私は死んだら天国に行くのです! 私は地上でこんなに苦しんでいますが、それは神様のための栄光ある苦しみです。 私は天国に行ってイエス様と共に暮らすのです。」 というわけで、ジーンは恵みに満ちた死に方について 本を書き始めたのですが、その時 神様が、彼に フロリダ州オーランド市に行くように語られました。 ジーンと彼の奥さんはアリゾナ州フェニックス市に住んでいました。 彼はなぜ神様が
オーランド市に行くように語られたのか わかりませんでした。 ジーンは福音を語るために仕事を止めていたので、彼らは非常に貧しく、持っていたものをみな売り払って
食費とガソリン代を得、なんとかオーランド市に着きました。 彼らがそこに着いて最初に行った教会の集会で、牧師は、「いやしはあなたのものです。」という説教をしたのです。
その説教の後、ジーンは聖書の中に いやしのみことばがあるのに気付き始めました。
とくに彼を感動させたのは、詩篇107:20 でした。
「主は みことばを送って 彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。」
もう一つは 詩篇118:17でした。
「私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。」
誰かがこの聖句を引用したとき、彼はまだ恵みに満ちた死に方について本を書いていたのですが、このみことばが本当にあるのかどうか、彼は自分の聖書を調べてみました。 ジーンが聖書を開いていると、それは確かにありました!
彼の信仰はだんだんと高められ、ついにこう考えるようになりました。 「ああ、私はいやされることができるのだ!私は本当にいやされることができるのだ。
神様のことばによると、私はいやされることができるのだ!」 ジーンは、いやしは今日もあるのだ
と信じるまでになりました。
今日、たくさんの人が、いやしはもうないと聞かされているのは、悲しむべきことです。
ある人々は、いやしは弟子たちの時代には可能であったけれど、今はそうではない
と信じています。 神様はもういやされません。 あなたは誰かがこう言うのを聞いたことはありませんか?
それは悪魔の偽りです! もしイエス・キリストが 昨日いやされたのであれば、今日もいやされます。
もし主が今日いやされるのなら、明日もいやされます。 主は今まで変わりありませんでしたし、これからも変わることはありません! 悪魔はあなたが病気を信じることを望んでいます。
しかし、神様は、あなたがいやしを信じることを望んでおられるのです!
ジーン・リリーは聖書を読み続けましたが、読めば読むほど、いやしは今もあるのだという信仰がわいてきました。 そして彼は大きな声で言いました。 「私は いやしが今もあるということだけでなく、私のためにあることを信じます!」 これは、恵みに満ちた死に方について本を書いている男にとって、大きなステップでした。
次に、ジーンはこう思いました。 「もし私が 誰か手を置いて人をいやしたことのある人に出会えれば、その人はどのようにして信仰の祈りをするのか知っているだろう。」 誰かがジーンに
私の書いた『イエス様が通られてから』という本をあげました。 この本には、テキサス州エルパソのサザン・バプテスト教会で、神様が私たちに奇跡の働きを与えてくれたことが書いてありました。
ジーンは言いました。 「おお主よ。 もしチャールズ・ハンターとフランシス・ハンターは
フロリダのオーランドに来て、私の上に手を置いてくれるなら、私はいやされることを信じます。」 もちろんジーン・リリーにとって、チャールズ・ハンターとフランシス・ハンターは必要ありませんでしたが、何かきっかけになるものが必要でした。
彼の信仰を解き放つ何かが必要だったのです。 ジーンは神様にこういったばかりです。
「ああ、もし私が 誰か病人に手を置いていやしたことのある人に会うことができれば、その人に手を置いてもらっていやされることができるのに。」
そして今、彼はそのような働きによってたくさんの人々をいやした人の本を読んだのです。
ジーンの信仰は高まっていました! 神様はすばらしい方です。 翌日 ジーンが新聞を買うと、大きな宣伝が載っていました。 『チャールズ・ハンターとフランシス・ハンターは フロリダ州オーランドの ディズニーランドの隣のヒルトン・インで 奇跡の集会を開きます。』 ジーンの信仰は高く舞い上がりました。 それは文字通り爆発しました。 これはまたとない機会でした。
集会の夜、ジーンの信仰は強く、彼は奥さんに言いました。 「歩行器は家に置いておきなさい。松葉杖も置いておきなさい。
私はいやされるのだから 全部家に置いていきます。 そんなものを持っていく必要はありません。」 何という信仰でしょう。 その夜、ジーン・リリーの家族は、彼を
引きずったり おぶったりして来ました。 私たちに 知識の言葉 (Tコリント12:8)が与えられ、彼から四、五席離れたところに座っていた男性のいやしを宣言しました。
その男性は前に出てきて、聞こえなくなっていた片方の耳がいやされました。
ジーンはこれを見て興奮し、考え続けました。 「次は私だ!次は私だ!」 ジーンの列でもう一人の人がいやされ、ここにも一人、あそこにも一人
といやされていましたが、気がついてみると 奇跡の集会は終わっていて、私たちはまだ彼に手を置いてはいませんでした。 ジーンは今までと同じように病気だったのです。
彼の身体は来た時と同じように麻痺したままでした。 糖尿病も多発性硬化症も
来た時と比べて何も良くなっていませんでした。
そして私は言いました。 「私たちが知識のことばによって あなたの病気を呼ばなかった人は、前に出てきてください。
あなたはいやされます。」 ジーンは思いました。 「これだ。これこそ、そうだ。」
ほどんど信じられないような決意をもって、彼は自分自身を引きずりながら、一列ずつ進み、とうとう前に来ました。
二人の案内人が彼を助けて、立たせました。
私は言いました。 「イエス様を ほめよ!」 彼はもう少しで信仰を落としてしまうところでした。 後に彼は言いました。 「私はあなたほど無情な女性は 今まで見たこともないと思いました。 私が死ぬと言っているのに、あなたは「イエス様をほめよ!」と言ったのです。 でも私は見上げて、あなたの目を見たとき、生まれて初めて 神様を制限しない人を 私は見ているのだ、と気付きました。 あなたを見た時、あなたが 私に手を置けばイエス様がいやしてくださる、ということを信じている ということが、私にわかったのです。
ジーンは正しかったのです。 ジーンが言うには、みんな、彼が神様のもとに帰る栄光の日まで、神様が彼に
この人生の苦しみに耐えることができるだけの恵みを下さるように、と祈ってくれたそうです。
しかし、突然、彼は、神様を少しも制限しない女性の目を見つめていたのです。
彼は言いました。 「あなたが あの途方もない祈りをしたとき、私は自分の耳を疑いました。」
私は、「いいですか、神様。」と言って、多発性硬化症や身体の麻痺や糖尿病やその他の問題の 長いリストを読み上げるようなことはしませんでした。 私はただ、「あなたに必要なのは イエス様のオーバーホールです。」と言ったのです。 そして言いました。 イエス様、彼をオーバーホールしてください。」 こう言って、私が彼の頭に手を置くと、二人の案内人に助けられていたにもかかわらず、彼は神様の強い力で仰向けに倒れてしまいました。 彼の足は17年間
履いていることを感じることができませんでした。 突然彼の足が痛み始めました。
彼の靴は小さすぎたのですが、感覚がないので今まで気がつかなかったのです。
興奮したジーン・リリーは、神様が彼の身体に中で特別な働きを始めたことを知りました。
祈った後、ジーンは立ち上がろうと もがいていました。 案内人が彼を立たせましたが、もし神様が私に語られなかったら、私はその次に言ったことを
言わずじまいだったでしょう。
私は、「彼はそうは見えないかもしれませんが、いやされているのです。」と言いました。 確かに彼はいやされているようには見えませんでした。
彼は未だに びっこを引き、麻痺していて、来た時と比べて ちっとも良くなっているようには見えませんでしたが、神様が私の霊に語られたのです。
私は 悪魔が 疑いと不信仰を持ってきてこう言うのを許しませんでした。
「彼はいやされたようには見えません。 残念でしたね。 みなさん。 彼にはまた次の機会に来てもらいましょう。
いやされるかもしれません。」
私はただこう言いました。 「彼は、そうは見えないかもしれませんが、いやされているのです。」 神様は私に信仰の賜物を与えてくださいました。
そして私がそう言ったとき、ジーン・リリーの信仰は爆発しました。 彼は信じ、信じ続けました! 12時間以内に、彼は完全に 神様の力によっていやされ、普通の人のように歩いていました。 糖尿病さえなくなっていました。 しかし、私はいつもみんなに言うように、彼にも強調しました。
「もしあなたが薬を飲んでいるなら、医者がいいというまで飲み続けなさい。」と。 翌朝
彼はいつものように インシュリンを服用しましたが、彼の体はもうそれを必要としていなかったので、もう少しでインシュリン・ショックになるところでした。
彼は オレンジジュースを4リットル近く飲んで 一日中チョコレートを食べて、インシュリンの効果の埋め合わせをしなければいけませんでした。
それ以来彼は インシュリンを服用していません。 ジーンの医者は月曜日に町を出ていたので、電話をして火曜日に予約しました。
彼は医者に言いました。 「私はこの週末にいやされたのです。」 医者は言いました。
「誰が君をいやしたのかね。」 「イエス様です。」 「イエス様だって?」
と医者は聞きました。
ハレルヤ! ジーン・リリーは神様の力によって完全にいやされたのです。 もし彼があの晩、「ああ、やっぱりうまくいかなかったんだな。」と言っていたら どうなっていたでしょう。 彼の「うまくいかなかった」の言葉通りになっていたでしょう。 なぜなら、聖書は、私たちの言うとおりのものを受ける、と言っているからです。
ジーンはどのようにしていやされたのですか? 手を置くことによってです。
聖霊の力に打たれることによってです。 私の「信仰の賜物」によってです。 ジーンの「信仰の賜物」によってです。
命令によってです。 ジーンが信仰を 行動に移したからです。
あなたは手を置くことによって 人をいやすことができます。 しかし、イエス様もしばしば いろいろな方法で病人をいやされたのですから、時には 「手を置くこと プラス アルファ」を使うのが賢明なのです。
チャールズ著
私たちが聖霊のバプテスマを受けてすぐ後、私たちの集会でいやしの数が増えてきたのに気がつきました。
神様がいやされるたびに、私たちは興奮し、主の力ある奇跡について語りました。
そして私たちが奇跡について語れば語るほど、主はいやされました。
ある晩、一人の男の人が 二人に助けられて、杖を二本突きながら出てきました。
彼には 足を床から持ち上げるだけの力がありませんでした。 彼は足を引きずっていました。
私は彼に、何の病気か聞いて、祈りました。 (その時にはわかりませんでしたが、祈りがいやしの手段として 実際に用いられたわけではありませんでした。) そして何か別のことをしたのです。
祈り終えたとき、「主をほめよ!」と言って帰ってもらう代わりに、「杖を取り上げて歩きなさい!」 と言ったのです。 彼は杖を床から上げて 足を前に動かしましたが、倒れませんでした! もう少し動かしましたが、それでも倒れませんでした。 私は彼の手を取って、少しずつ早く彼を歩かせました。 そして言いました。 「歩くときに、すねを曲げてごらんなさい。」 彼はすねを曲げはじめ、まもなく私は彼とステージの上を走っていました。 彼は言いました。「主をほめよ!ハレルヤ!」 私たちが祈る前は彼はずいぶん小声で話していたので、私たちが理解するまで
彼は自分の病名を5回も言わなければなりませんでした。 しかし、今では、彼が
部屋の向こうからでも聞こえるほどの大きな声で叫べるようになるまで、そう長くはかかりませんでした。
このいやしは、どこが普通と違っていたのでしょう? 私たちは 実際には 彼に手を置きましたが、歩くようにも言ったのです。 私たちの働きの中で、信仰を行動に移すように言ったのは、これが初めてでした。 神様に栄光がありますように! 彼はそれに答えて信仰を実践したのです。
彼の信仰は大きくはなかったかもしれませんが、杖を取り上げて 彼の足を一歩踏み出すのに必要な
信仰は、十分にあったのです。
イエス様は 人々に 信仰の行動をさせました。
「手を伸ばしなさい。」 (マルコ3:5)
「起きて床を取り上げて 歩きなさい。」 (ヨハネ5:8)
「行って、シロアムの池で洗いなさい。」 (ヨハネ9:7)
私たちも同じようにしたのです。 信仰は行動に移す必要があります。 いやしは、しばしば
人々がその信仰を行動に移す時に起こります。 手を置くことと、行動を伴った信仰が、結果を生むのです。
誰かが肘(ひじ)の痛みのことで 私のところへ来ると、その人が「十年前に悪くなったのです。 曲げることができません。 痛いのです。」と言い終わる前に、私は肘にさわって(手を置いて)、「イエス様の御名によって、肘を動かしなさい。 曲げなさい。」と すぐに言います。 まだ どこが悪いのか 言い終わっていなくても、彼らがすぐに応えて 肘を曲げるならば、ほとんどの場合、それは完全にいやされるのです。
なぜでしょうか? それは彼らが(不信仰な言葉を言って)信仰を失う前に、あるいは 私も信仰を失う前に、すでに いやされてしまうからなのです。 いやしの3つの方法が、ここに含まれています。 手を置くこと。 命令。 信仰の行動、です。
あるカウボーイのナショナル・チャンピオンが 投げ縄ができなくなって、私たちの集会に来ました。
彼は肩をひどく痛めて、手を上げることができなかったのです。 私はすぐに手を伸ばし、彼の肩にさわって言いました。
「イエス様の御名によって、手を上げなさい。」 彼は何も考えないで、すぐに手を上げたのですが、その時の彼の驚きの表情には
何物にも代えられないものがありました。 信仰をもって すぐさま行動に移すと、しばしば 望ましい結果が得られます。 それは悪魔からの疑いと 不信仰が 入ってくる暇がないからです。
神様の奇跡はこのようにすばらしいものですが、その目的が成就されることは
もっとスリルがあります。 このカウボーイは、今、国中を旅行して、ロデオで働きながら、いかに神様が彼の肩をいやされたかを語って、人々をイエス様に導いているのです。
手を置くことプラスアルファの もう一つの良い例があります。 私たちは
PTLクラブ・バーン(大きな教会堂)の献堂式のパレードに出席するため 行った時の事でした。
パレードに出る順番を待っていた時、あるスタッフの方が杖をついて びっこを引いているのに気がつきました。
「あなたの足は どうなさったのですか。」と私たちはたずねました。 彼女は私たちに興味深い話をしてくれました。
彼女は6か月前に滑って転び、右足の骨を折ったのです。 医者がレントゲンで見ると、骨が2センチくらい離れているのがわかりました。
彼は手術しない限り一生その足が短くなる、と告げました。 彼女が言うには、医者が彼女にこう告げたとき、神様は彼女に私たちのことを思い出させたので、「運に任せるから、手術しないでください。」と言ったのです。 そして私たちは、彼女の事故以来初めて、こうして彼女の目の前に立っていたのです。
私たちは、彼女に、足を前に投げ出して、パレードの出し物の上に座ってもらいました。
確かに 片方の足は、もう片方より2センチくらい短かったのです。
しかしここでは、違ったいやしの方法を用いたことに注目してください。 私たちは、足を持って、彼女の足に手を置き、足に向かって語り始めました。 私たちは、骨が伸びて一つとなり、足が伸びるように イエス様の御名によって命じました。 それは非常に遅く、完全な長さに伸びるまで五分くらいかかりましたが、−確かに伸びたのです! 彼女はその日、痛みもなく、杖もつかないで歩き回っていました。 その後、彼女は、暑くて風の強かったパレード場で、神様が骨を接(つ)いでくださったという力強い奇跡を、PTLテレビのネットワークで証しました!
神様は私たちに、いろいろな 病人のいやしの方法を教えてくださったのですから、一つだけに固執しないでください。 私たちは、超自然の世界で奇跡が起こり得るということを、常識的な自然な考察によって 発見したのです。 (このことは、箴言で多く語られています。)
脊柱側弯症の場合は、(不治の病と言われていますが、) 霊に出てくるように命じて、骨と脊柱がまっすぐになるように命じなければなりません。 悪霊が出てきても、命じない限り 骨はまっすぐになるとは限らないので、両方をしない限り
脊柱は曲がったままになることもありえます。
脊柱側弯症の専門の オハイオ州のある医者が、脊柱側弯症のいやしを見たことがあるかどうか、私たちにたずねました。
私たちは彼に多くの例を話しましたが、私たちが神様のわざをもっとよく学び、理解することができるように、彼に
いやしの集会に出てくれるように、招待しました。
私たちは4、5千人の聴衆に、彼らの腕の長さが同じであるかどうか、調べてもらうことにしましたが、それは、背中、首、腰、肩などに問題があることの兆候です。
約700人以上の方が、立って、腕が短いことを示しました。 私たちは、案内人の人たちに頼んで、ステージからでも長さが違うのが十分わかる人を10人選んでもらいました。 その医者は、私たちと一緒にステージの上にいましたが、上がってきた方の一人は
脊柱側弯症の患者で、彼女によると、約30度曲がっていました。 その少女の左腕は、右よりも約8〜10センチ短かったのです。
私たちがイエス様の御名によって、脊柱側弯症の霊に出て行くよう命じ、そして 腕に 伸びるよう命じていた間、その医者は私たちのそばに立っていました。 その腕がもう片方の腕と同じ長さになったので、私たちは
その医者に、背中がどうなったか調べるよう頼みました。 彼は、レントゲンやその他の検査機器がなかったので、限られた検査しかできませんでした。
彼は、彼女に体を曲げてもらって、脊柱を上から下までさわってみました。 彼は、まだ10度くらい曲がっているように思う。」と言いました。
私たちは、彼女に前へ体を曲げたままにしてもらって、いやしの次のステップを踏みました。 私たちがイエス様の御名によって脊柱にまっすぐになるように命じていた間、医者は、聴衆に話ができるようにマイクを手に持っていました。 聴衆は沈黙していましたが、この専門医が、「動いている!動いている!動いている!」と言ったとたん、全集会場は興奮で満たされました。 彼が彼女の脊柱を上から下まで検査していた間、また沈黙が続きました。 最後に彼は言いました。 「どうやらまっすぐになったようです。」 ハレルヤ!
二日後、その少女の医者から、私たちの事務所に電話がありました。 彼はこう言いました。
「このことに関する あなたの本やテープを全部送ってください。 こんなことは今まで見たこともありません。
彼女の脊柱は完全にまっすぐです。」
あなたが人々に手を置き、プラス・アルファをするとき、同じようなすばらしい奇跡が、あなたに人生にも起こるのです。